スタッフエッセイ 2004年4月

サクランボと桜と小さな女の子

渡邉佳代

 桜が舞い、新芽がみずみずしく輝き始める今日この頃。私はこの季節が一番好きだ。春は出会いと別れの季節とも言う。しかし、不思議と私には別れの記憶がない。別れ別れになったとしても、互いに元気でいる限り、どこかでまた出会うことができるだろう、以前とはまた違った関係になったとしても、互いに築いてきた関係が消えてなくなってしまうことはないだろうという思いが、どこかにあるからだろうか。それとも、今までにそれほど手痛い別れを経験したことがないからだろうか。まぁ、どちらの要因があるとしても、出会った人とのつながりが自分の中で内在化しているように思えることが大きくあるように思う。甚だセンチメンタルな自分よがりの考えかもしれないが、それが現在の私の原動力になっているようにも思える。
 我が家には、サクランボの木があった。「あった」というので、今はない。物心ついた時に、そのサクランボの木は、私が生まれた時に植えられたものと両親から聞き、幼心に「私の木」という意識があった。毎年、雪解けを待って庭に飛び出し、今年も土筆やふきのとうは出ているのだろうか、苺や小さなツツジの苗は、長い冬の間に雪の重みで傷ついていないだろうかと、さながら春の番人のように庭の隅々を確かめて回ると、果たしてそれらはそのままにあった。今年も出会えたという喜びにワクワクしながら、私はサクランボの木によじ登り、庭全体を見回していたことを記憶している。
 私が実家を出て京都に住み慣れた頃、サクランボの木が病気にかかった。木も病気になる。「あんたの木、もうダメかもしれない」と母の電話で知った。その年、私の木は例年よりたくさんの花を咲かせ、たくさんのサクランボがなった後、枯れてしまったという。私が次の初春に実家に帰ると木は切り倒され、切り株だけが雪の間から顔を覗かせていた。毎年変わらずにそこに「ある」と信じていただけに、私にとっては大きなショックだった。
 呆然と庭を回っていると、ふと見覚えのない木に目が止まった。それは、私が大学に入学する際に、一年通っていた予備校から祝いにもらった桜の苗だった。当時は、ヒョロヒョロとして私の腰くらいの高さしかなく、スーパーのビニール袋に入れて電車に乗って持ち帰ったものだったが、今やしっかりと根を張り、私の身長もとうに越え、立派になった枝を空に向かって大きく広げているその木が、あの苗木と私の中で一致しなかったのだ。苗木を植えてすぐに実家を出た後、私も京都で根を張り、多くの人との出会いを栄養にして、この木と共に成長してきたのだろうか。
 坂口安吾然り、梶井基次郎然り、桜はその美しさゆえ狂気さえ生み出すと描かれることがある。梶井が満開の桜を「あたりの空気のなかへ一種の神秘的な雰囲気を撒き散ら」し、「よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴う」ようだと例えていたが、なるほど、満開の夜桜には、あまりの美しさに恐ろしささえ私も感じる。しかし、私の桜の木はそのような力は持っていない。背丈は大きくなったが、まだまだ若々しく、庭の他の木にようやく仲間入りをしたという印象を受ける。彼の季節になろうとも、ひっそりと庭の隅で、他の者を圧倒することなくマイペースに花をつけている感じだ。
 サクランボから桜へ、私も少女から成人へ変化していくと共に、我が家もその間に弟のパートナー、そして姪っ子と家族が二人増え、新たな歴史を刻み続けている。先日、実家に帰った時には、満一歳の姪っ子が家族の華だった。まだ「バッ!」としか言えない彼女は、周りの者が「佳代オバチャンは?」と聞くと、「バッ!」と言いながら私を指差したものだった。私が京都に帰った後も、「佳代オバチャンは?」と母が聞くと、決まってパソコンを指差すそうだ。彼女の中で、私とパソコンは同じなのだろう。無理もない。実家にいる間、私はずっとパソコンをしながら彼女のお守りをしていたのだから。
 あの小さな女の子は、これからどのように成長していくのだろう。どのような出会いと別れを経験するだろう。あの子もあの庭や桜の木を愛するのだろうか。彼女にあのサクランボを食べさせてあげられないことは残念だが、その時にはせめて「佳代オバチャンは?」と聞かれたら、あの桜の木を指差してほしいなと、伯母バカな私は陰ながら願っている。
 さて、私の桜の木は、今年、どんな花を咲かせていることだろう?

(2004年4月)