スタッフエッセイ 2003年12月

私が子どもだった頃

津村 薫

我が家の愛娘は、1988年生まれだ。1962年生まれの私が子どもだった時代と、娘の生きる現代は当然のことながら、あまりに違う。折にふれてそんな話を娘にしてきたが、いつも「え〜っ」という反応を娘がして、結構面白い。私と同世代の夫も「俺はこうやった」などと話の仲間に加わって、皆で涙を流して大笑いすることがある。
たとえば・・・・
・言うまでもなく「コンビニエンスストア」などなかったし、町内に市場が一軒あるだけ。ノートなどの文具は、自転車で10分ほどの文房具屋まで買いに行かねばならない。それらの店はたぶん6時半頃には、もう閉まっていた。夜、忘れ物に気がついても、もうアウト!翌日には「忘れました」と先生に申し出るしかない。
・子どもが千円札を持って買い物に行けば、お店の人が驚いて受け取らないこともあり、「おうちの人は知っているの?」と尋ねるような時代だった。おやつは駄菓子屋で10円〜30円。50円、100円のチョコレートなどというのは高級品で、とても買えなかった。
・昔は「よそ行き」などという言葉があって、ちょっとだけ良い服を持っていた。外食などというのは、一大イベント。ウキウキして「よそ行き」を着込み、晴れがましい気持ちで連れて行ってもらったものだ。今のようにファミリーレストランがあふれている時代でもない。デパートに出かけるなどというのも、ハレの大イベント。その食堂で、もしかしてフルーツパフェを食べさせてもらえるかなと、ドキドキしつつ楽しみだった。
・電話はもちろん、ダイヤル式の黒電話。携帯電話がないのはもちろん、当時はポケットベルはおろか、電話のキャッチホンなども、とんでもない。思春期に長電話をしては、「電話がかからなくて困っている人がいたらどうすんの」と叱られたものだ。
・ましてやパソコンなど知らず(ワープロを見たのも、実は10代後半くらいだ)、友達とは、手紙や交換日記を楽しんだものだ。当時は中学生の男女の交際なども、「交換日記をしませんか」というのが決まり文句だったくらいだ。
・お正月ともなると、周囲の店は数日間閉まってしまう。今のように元旦から空いている店などない。デパートですら三が日は休み、4日からの営業というのがお決まりだった。今ほどレトルト食品や冷凍食品も充実してはいないあの頃、食べるのはお雑煮とおせち料理のみ。しかし、「おせちもいいけど、カレーもね」というコマーシャルは当時からあった(笑)。初詣で「綿菓子」を買ってもらうのが何よりの楽しみだった。
・当時の大流行は「仮面ライダースナック」。確かスナックの値段は、20円くらいだった。カードを集めるのに夢中で、子どもたちがお小遣いでまとめ買いをしてカードだけを抜き取り、スナックを大量に捨てるなどという問題が起きて、小学校の朝礼で校長先生に「食べるものを大切に」と厳しく注意された思い出がある。
・子どもが何千円、何万円もする高いおもちゃを持っているなどというのも、ありえなかった。当時の私の憧れは「ママレンジ」。確か3,000円弱くらいのおもちゃ。高すぎて買ってもらえず、隣に住む友達が持っているのが、とても羨ましかった。
・ゲームもない、もちろんビデオもないので、きょうだいで見たい番組が違うと大変。話し合いが決裂して、きょうだい喧嘩が勃発することも!小学校低学年の頃などは、まだ白黒テレビだったように思う。
・当時、夢中になった遊びは「紙人形遊び」、「ゴム跳び」、「ドッヂボール」。子ども銀行発行(笑)のおもちゃのお札を持っていて、それで「お店屋さんごっこ」もしたものだ。
・上野動物園にパンダがやってきて、パンダブームが起きた。クリスマスにパンダのぬいぐるみを買ってもらって、とても可愛がったものだ。
・もちろん、今のようなド派手なアイドル(モーニング娘。や浜崎あゆみなど)はいない。憧れはアグネス・チャンだったり、浅田美代子だったり、山口百恵・桜田淳子・森昌子の3人娘や野口五郎・西城秀樹・郷ひろみの新御三家など。フィンガー5にも、おおいに盛り上がったものだ。
・ツイスターというゲームも流行った。体をひねって無茶なポーズをとるのだが、尻もちをついたら負け。娘が以前、祖父に「ダンスダンスレボリューション」というゲームのマットを買ってもらったが、それを見たとき「ツイスターゲームみたい」と思わず洩らした大人は私だけか?
・「みなしごハッチ」には涙した。あまりにかわいそうで夫は見るのもイヤだったそうだ。「男のくせに泣いてる」と言われるのもカッコ悪かったらしい。
・夢中になった遊びといえば、「ゴム跳び」、「ドッジボール」、「紙人形遊び」、「リカちゃん人形遊び」。近くの川でザリガニをとったり、畑の中で遊んだりと、自然には恵まれた郊外育ちなので、遊びには事欠かなかった。それでも私は、友達と遊ぶより、自宅でひとり本を読んでいるのが一番好きという子どもで、「たまには外で遊びなさい」「目が悪くなっちゃうよ」と親によくたしなめられた。でも、縁側でゴロリとしながら、本棚から好きなだけ本を出して読むのは、子ども時代の私には、最高の至福のときだった。読書はあまり好きではなく、夏休みの宿題で最も苦痛だったのは読書感想文だったという理数系大好き人間の夫には、とうてい共感できないらしい(笑)。
・そうそう、今のように、友達と遊ぶのに電話でアポをとったりしない。友達の家に出向いては♪○○ちゃん、あーそーぼ♪と節をつけて誘うのがお約束だった。

懐かしい思い出は語ればキリがないけれど、それだけ私の宝箱に、たくさんの「私を育てたもの」が詰まっているのだろう。時々は開けて、輝きを楽しまなくちゃね。しかし、私の高校時代、アイドルは松田聖子で、多くの女の子は聖子ちゃんカットをしていたものだと娘に言うと「こんな頭(ヘアスタイル)を皆で真似したん?」という反応。「松田聖子ってのはねえ、昭和歌謡史に燦然と輝く大歌手なんだよ〜!」と言っても「あっそ」という顔。ふふ、わからなくてもいいけど。
思い出を語って懐かしむ行為は、娘への教育的見地?を越えて、自分の子ども時代をも愛おしむ機会にもなり、私のためになっているのかもしれない。色とりどりの思い出たち。 

(2003年12月)