スタッフエッセイ 2003年9月

『I WAS BORN』

小田裕子

 中学生の頃「生まれる」という英語を「受身形」という形で初めて習った。
その当時、「生まれる」ということが「受身形」であるということ(生まれる=be born)を文法上で知り、不思議に思ったことを覚えている。当時の私にはまだ「ピーン」とこなかったのだ。しかし、最近とある講演を聞きに行き、吉野弘さんの『I WAS BORN』 という詩に出会いその意味を痛感した。

  その時 僕は「生まれる」ということが まさしく「受身」である訳を、ふと諒解した。
  僕は興奮して父に話しかけた。
  「やっぱりI was bornなんだね」
  父は怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。僕は繰り返した。
  「I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないん  だね。」

思わず書き留めてしまったフレーズ。私の記憶が正しければ多分こんな感じだったと思う。
そう、私たちは自分の意志ではなく、受身に"生"を与えられたのだ。そのことに気づいたのはいつ頃だっただろう?はっきりとした記憶はないが、いつもどこか自分の中にそういった感覚があった。
 講演の中ではその詩を受けて、「受身に偶然与えられた生を『これが私の人生だ』といえるような人生へと選びなおしていく。その生みの苦しみが始まるのが思春期であり、それを第二の誕生の時と呼ぶ。つまり、思春期を経て大人になるということは、自分の人生を肯定して、責任を持って引き受けられるようになるということ」というようなことが、しっくりくる分かりやすい流れで説明された。
 ナルホド。確かに私もそう思う。つまり、人は成長して力をつけていくことで受動的に与えられた生から脱皮し、能動的な生を志向するようになる。だからこそ、人は「生きる目的」を見出そうと必死に働いたり、夢を追い求めようとするのだろう。きっとそれは良いことで、そのお陰で様々な謎が解明され、便利で快適な暮らしが実現したのだろうとも思う。しかし、強迫的なまでに「自分探し」に駆り立てられる今時の若者の姿をみて、最近何ともいえない違和感を抱く。
 「ありのままの自分を受け入れる」ということは、『I WAS BORN』という「受身形」で生まれてきた「受動的な存在である自分」を受け入れることから始まるのではないだろうか・・・。
生きていく中で自分の人生を自分のものとして請け負っていかねばならない事は確かにある。しかし、始まりに逆らうような能動的な生き方をすればするほど、人はますます不安定になっていくのではないだろうか。
『I WAS BORN』。
受動的に生まれてきた自分の始まりを大事にしたいと思う今日この頃である。
実は私は、この詩の結びを知らない。明日にでも本屋に探しに行ってみようかな・・・。

(2003年9月)